盛岡家庭裁判所一関支部 昭和40年(少)263号 決定 1965年5月15日
少年 S・K(昭二二・八・一六生)
主文
この事件について、少年を保護処分に付さない。
理由
一、本件送致事実は「少年は一関駅構内付近に居住するものであるが、汽車の入替えに伴うブレーキ等の異常な騒音に日頃から不満をいだいていたところから、汽車の住来を妨害しようと企て第一、昭和四〇年二月○日午後八時頃、一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁一一〇米地点上り軌条上に長さ八二糎の枕木一本を置き汽車の往来に危険を生ぜしめ、第二、同月○○日午後八時四〇分頃一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁一二〇米地点下り軌条上に長さ二米五〇糎位の杉角材一本を置き、汽車の往来に危険を生ぜしめ、第三、同月△△日午後九時頃同市○○○町県立○○第一高等学校体育館前自転車置場において○村○子所有の中古自転車一台時価一万五、〇〇〇円相当を窃取し、第四、同日午後九時一四分頃同市△△△△地内東北本線東京起点四四六粁四五七米地点下り軌条上に、前記窃取に係る中古自転車を置き、汽車の往来に危険を生ぜしめ、第五、同月××日午後一一時三〇分頃一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁三六米八〇地点下り軌条上に、付近にあつた重さ七・八瓩の石一個を置き、汽車の往来に危険を生ぜしめたものである。」というにある。
二、ところで、本件保護事件はさきに昭和四〇年三月一日送致に係る同年少第一六三・一六四号汽車往来危険並びに窃盗保護事件及び同月二日送致に係る同第一六五号汽車往来危険保護事件として当裁判所で併合審判された結果、本件は社会的に重大な事件であり、かつ少年及び保護者が少年の非行であることを強く否認しているため、検察官送致をし刑事訴訟法による対審の手続により審理をするを相当とするとして、同年三月一九日少年法第二〇条による検察官送致決定がなされたが、検察官は同月二七日「本少年事件は貴裁判所から刑事処分を相当とするものとして送致を受けたが左記理由により訴追を相当でないと思料するので右事件を更に送致する」として再送致をしたものであり、その理由とは「被疑者の警察官に対する自供内容、それと符合する現場の状況などから被疑者の犯行と認められるが公訴を提起し、公訴を維持するに足る証拠は十分とは言えず、被疑者が精神薄弱者であることなどを考慮し訴追は相当でなく少年院送致を相当と思料する」というのである。
三、しかし少年に対する保護処分の要件は要保護性とともに非行の存在を必要とするものであることはいうまでもないことである。よつて、送致にかかる少年の非行事実の存否について審判を開始し審案するに、
本件記録によれば(イ)○○堂○雄の鉄道公安委員に対する供述調書、司法巡査作成の昭和四〇年二月一〇日付実況見分調書、押収に係る古枕木一本(昭和四〇年押第二六号の二)によると、昭和四〇年二月○○日午後八時二分一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁一一〇米、一関駅起点一粁一一〇米、○井川鉄橋南方三五・四〇米上り本線左側軌条上に、長さ〇・八二米幅〇・三〇米厚さ〇・一三米の古枕木一本(同号の二)が置かれていたのを上り客車準急五〇六D(くりこま三号)の運転手○○堂○雄が発見したことが認められる。
(ロ) 司法警察員作成の昭和四〇年二月一一日付実況見分調書、司法警察員鬼柳盛正外一名作成、司法警察員長岡昭次外一名作成、司法警察員小林秀司外四名作成、司法警察員長岡昭次作成、司法巡査及川武夫作成、司法警察員鈴木市四郎作成の各捜査報告書、○慈○蔵、○辺○勝の司法警察員に対する各供述調書、押収に係る皮付杉角材一本(同号の一一)を綜合すると、同月○○日午前一〇時頃前記事件の現場捜査中の警察官長岡昭次が一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁三七六米地点一関駅起点一粁三五六米○井川鉄橋北側下り軌条側に折損した長さ二米縦一二糎横八糎皮付杉角材一本(同号の一一)が遺留されているのを発見し、右角材の折損部位は木口より一七〇糎のところから車輪によると思われる切目が入つており、また三五糎ないし六五糎の部位には列車車輪によると思料せられる車轢痕が二条ある。その外○○踏切端より山目駅方向下り線路上一八・二五米の道床砕石上に長さ二〇糎の木の皮が、一四・八二米の道床上のコンクリート枕木脇に四片の木の細片が、同所から一米離れた砕石上に一片の細片が散在し、同踏切より一関駅側の鉄橋中間辺の○井川浅瀬に長さ五〇糎の木の皮付木片がそれぞれ発見された。これによると右杉角材は下り線の○井川鉄橋中間辺以南の軌条上に放置されていたのを列車に付近より轢きはねたものと推認される。そして放置された時間は、前日○○日東北本線○井川鉄橋南側踏切を午後七時から午後八時三〇分まで警察官が張り込み警備したが、その間何等の異状も認められなかつたのであるから、その後である午後八時三〇分以降と推認される。
(ハ) ○村○子作成の被害届及び同人の司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の昭和四〇年二月一四日付及び同月二〇日付各実況見分調書、○田○治の鉄道公安委員に対する供述調書、押収に係る自転車一台(同号の三ないし九)によると同月△△日午後五時三〇分から午後九時一五分頃までの授業時間中に一関市○○○町所在○○第一高等学校東側通用門出入口体育館前自転車置場から同校定時制高校生○村○子所有の中古自転車一台(昭和四〇年押第二六号の三ないし九)が窃取され、同日午後九時一四分東北本線△△踏切付近東京起点四四六粁五〇〇米地点下り軌条上に前記自転車が放置されているのを午後九時一〇分一関駅発第一六七貨物列車機関士○田○治が発見した。
(ニ) 司法警察員作成の昭和四〇年二月一四日付実況見分調書、司法警察員菅原毅作成の昭和四〇年二月一四日付同一五日付同一九日付並びに司法警察員鈴木市四郎外一名作成、鉄道公安職員作成、司法警察員鬼柳盛正外一名作成外捜査報告書、司法警察員作成の現場写真撮影報告書によると翌××日午後一二時頃張込警備を終え鉄道沿いに帰途についた鉄道公安職員八重樫、鈴森両名が翌○×日午前零時一七分頃一関市○○○町地内東北本線東京起点四四六粁三六米八〇の地点下り軌条上右側レール上に七・八瓩の石一個(同号の一)が置いてあるのを発見した。以上の事実が認められる。
四、しかし、この一連の列車妨害及び自転車窃盗が少年の犯行によるものであるとするものは、結局少年の自供調書のみである。即ち少年の司法警察官に対する昭和四〇年二月一八日付、同月一九日付、同月二〇日付、同月二二日付、同月二四日付及び同年三月一日付各供述調書及び少年の検察官に対する同年二月二五日付供述調書並びに検察官、司法警察員に対する各弁解録取調書、裁判官に対する陳述録取調書がこれでありこれ以外に少年を犯人と断定するに足る証拠はなく、現場付近より採取した足跡はいずれも少年の着用のそれとは一致せず、現場の遺留物で少年と結びつく客観的な証拠は発見されない。
五、しかも、前記各供述調書の信憑性は次に述べる如く極めて疑わしい点が多く、従つてこれを信用することはできない。即ち、前記供述調書のうち検察官に対する供述調書、弁解録取調書、裁判官に対する陳述録取調書はその供述内容が概括的であり、あるいは司法警察員に対する供述を確認したものにすぎないので結局少年の司法警察員に対する前記各供述調書について順次検討してみるに、
(イ) 送致第一の事実について犯行を自供した少年の司法警察員に対する昭和四〇年二月二二日付供述調書には少年が列車妨害をするため家を出たのは七時三〇分から始まる「歌まね読本」というテレビ番組を二〇分位見てからであり、帰宅したのは九時頃で丁度家の人達が寝る準備をしていたというのである(当審判廷における証人S・S子の証言によると少年の家では勤務の関係から週日は九時頃寝るしたくを始め、土曜日だけは一〇時頃まで起きていることが認められる)従つてこの時間が正しいとすれば枕木を軌条上で発見したのは午後八時四分であること前記認定のとおりであり、少年は枕木を置いて直ちに帰宅したと述べており、供述によれば帰宅までに約一時間を要したことになる。しかし当裁判所の検証の結果によるも少年の供述にもとづく方法による帰宅の所要時間は一五分を要しない距離にある。また少年は三本あつた枕木の内一本を軌条上に置いたと述べておりその在場所を図示しているが司法巡査作成の昭和四〇年二月一〇日付実況見分調書によれば少年の図示する附近に一本も枕木が残存してないことは明かである。加えて証人小林秀司の当審判廷における証言によると枕木の放置してあつた場所附近の残雪上の足跡が少年の着用していた長靴のそれと一致していない。
(ロ) 送致第二の事実について犯行を自供した少年の司法警察員に対する昭和四〇年二月二三日付供述調書には列車妨害をするため家を出たのはテレビ番組「ごろんぼはと場」を全部見た午後七時三〇分頃で丸太を置いたのが午後八時頃だと思う、家に帰つてテレビ「コンバット」(八時から九時までのテレビ番組)を見て寝たと述べているが同日は午後八時三〇分まで警察官の張込警備がなされその間何等の異状も認められなかつたことは前記認定のとおりであり、犯行の時間に極めて重大な喰い違いがある。張込警備は○井川鉄橋南側踏切付近で行われたのであるから、妨害に使われた杉角材は張込の行われた同場所付近にあつたものであつて、張込警備中に犯行があつたことはとうてい考えられない。司法警察員長岡昭次の昭和四〇年二月一二日付捜査報告書、司法警察員作成の同月一一日付実況見分調書及び○慈○蔵の司法警察員に対する供述調書並びに押収に係る杉角材一本(同号の一一)によると右角材はその附着しているペンキの模様が○井川鉄橋南側たもとの堤防道路上に置いてあつた電化工事用アングルに附着しているペンキと一連の模様をなし、元このアングルに添つて在つたものと推認されるが、少年の供述によると妨害に用いた丸太は右アングルにより更に○井川よりにあつた鉄骨の鉄柱に添つて置いてあつたと図示しておりその位置に喰い違いがある。
(ハ) 送致第三、四の事実について犯行を自供した少年の司法警察員に対する昭和四〇年二月二〇日付供述調書には窃取した自転車を押して○井川鉄橋南側から同鉄橋を渡り前堀踏切のところから左側の線路脇の細い道を進んだとし、帰りももと来た通りに○○踏切から○井川鉄橋を渡つたと述べている。しかし、司法警察員鈴木四郎外一名作成の昭和四〇年二月一四日付捜査報告書によると連続の列車妨害に対処して同日は警察官による張込警備がなされていた最中であり、又司法警察員作成の昭和四〇年二月一一日付実況見分調書によると同鉄橋には常夜燈あるいは信号燈の照明により人の通行が見分けられる程度に明るい場所であることが認められ少年の供述による方法で行き帰りとも何人にも発見されず鉄橋を通過できるとは至難であるといわなければならない。
(ニ) 送致第五の事実について犯行を自供した少年の司法警察員に対する昭和四〇年二月一九日付供述調書には、少年が列車妨害を思いたつて家を出たのはテレビを午後一〇時に切り、二、三分経つて家を出、桜街の踏切りを通り骨接のところから右側の道路に曲つて真直ぐ線路に近い道路を歩いて堤防の方に向いて行き、坂道に入らない内に堤防の方に向つて左側で道路から一五米位離れたところにピックズ小屋がありその小屋の正面あたりで石を一つ拾い、両手で腹にかかえながら坂道を上り○井川堤防を経て道路から右に曲り線路淵を一関駅に向けて一〇〇米位行つた下り線の線路で上り線に近い方のレールに石を置いたと述べている。当裁判所の検証の結果によると少年の供述に従つた道程で通常の歩行で歩くと石を置いた位置に一五分で到達できる。しかも司法警察員作成の昭和四〇年二月一三日付捜査報告書によると○井川鉄橋南側堤防踏切付近で張込中午後一一時二五分同所を上下線列車が交叉通過した直後不審な男が同踏切から線路づたいに一関駅方面に歩いて行つたが同踏切付近では鉄道線路に妨害する態度もなく歩り去りその後姿を見失い午後一一時五五分頃異状ないものと認め張込みを解き帰途○×日午前零時過置石を発見したことが認められる。そうすると置石のあつたのは午後一一時二五分以降であり少年の供述とは一時間以上も違いが生じている。
もつとも一八日付供述調書ではこの点について市内を一時間位ぶらぶらしてから行つたとしている。
(ホ) しかも少年が自供するに至つた経緯は記録によると捜査当局がこの種事件の前歴者、精神異状者、現場付近で何らかの犯行を行つたことのある者について内偵した結果少年が○井川堤防をはいかいしているとの風評があり、又同所付近で以前非行を犯したこともあることから任意出頭を求めて取調べの結果犯行を自供したものである。しかし少年は限界級程度の知能しか有せず、言語による表現が極めて拙劣で口が重く思つたことを充分に表現できず被暗示性が強いため少年の供述は質問者の言葉に極めて暗示され易い傾向にある。従つて少年の司法警察員に対する前記各供述調書及びこれに添付されている少年作成の現場説示図面が一応犯行現場の状況と付合する点があるもこれをもつて直ちに供述全体が信用できるものとはなし難い。
(ヘ) 少年は当審判廷において終始非行を強く否認している。
六、少年の所在について、証人S・S子、及びS・Nの当審判廷における各証言を綜合すると、少年の住家は階下が八畳の間と六畳の間及び台所風呂場から成り台所と八畳の間に狭さまれて六畳間があり、ここにテレビセットを置き堀り炬燵をすえ家族が食事をしたり居間としている。二階は押入れ付八畳間で兄Nの寝室となつている。少年の母S子、弟Bは階下八畳間で寝ることにしており、便所は家の庭先に別棟となつてその都度外に出ることとなる。就眠は勤めが早いため週日は午後九時には寝る仕度を始め、ただ土曜日だけは午後一〇時頃まで起きているのが習慣となつている。日頃少年はテレビを見ることが好きで大抵の場合帰宅してからテレビの前に居ることが認められるが、本件列車妨害等のあつた日時頃少年が家族と一緒に家に居り、あるいはテレビを見ていたということを証明する明確な出来事や根拠となる事柄を明らかにすることはできなかつたがしかし同時に家族の者には少年は夜間家を出て行つたことについて、特に気付いた記憶もない。そして少年の司法警察員に対する前記供述調書によると、二月○日の犯行については午後七時五〇分から九時頃まで約一時間一〇分外出していることとなり二月○○日の犯行については午後七時三〇分頃から八時頃までの三〇分外出したことになり二月△△日の犯行は午後八時三〇分頃から午後一〇時頃まで一時間三〇分外出していたこととなり帰宅したときは家族はすでに寝ていたということである。また二月××日の犯行は午後一〇時二、三分頃から午後一二時頃まで二時間に亘り、しかも真夜に至るまで外出していたこととなる。当時は寒中であり○井川の堤防付近を歩行して帰れば、呼吸その他の態度にかなりの不審な点もあつたはずであり家も狭く、夜間の家族の行動範囲は限られておりこれに気付かないはずはないのであつて、家族の人達が少年について特に変つた事柄を記憶していないことは少年が終始在宅していたと考えることが自然である。
七、以上の如く、検察官送致に係る非行事実を少年の行為によるものとするには極めて多くの疑問が残り送致に係る非行事実を認めるに充分な証明はなく少年が本件非行を犯したということを証明し得ない。
よつて審判の結果保護処分に付することができないことが明らかであるから少年法第二三条第二項前段により主文のとおり決定する。
(裁判官 新矢悦二)